みなさん、迦陵頻迦(がりょうびんが)って何かご存じですか?
広辞苑によると、「仏教で雪山または極楽にいるという想像上の鳥。妙な鳴き声を持つとされることから、仏の音声の形容ともする。その像は、人頭・鳥身の姿で表わすことが多い。」となっています。
少し説明が堅くて分かりにくいですが、簡単に言うと「上半身が人、下半身が鳥の極楽に住む想像上の生き物。」
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見た目は、こんな感じになります。
画像:File:Amidakyohenso Karyobinga.jpg – Wikimedia Commons
なぜ急に迦陵頻迦について書く気になったのかというと、最近、また山岡荘八氏の「豊臣秀吉」を読み直してまして、
その中で迦陵頻迦についての面白い問答があったので、急遽、紹介したいと思いました。
話の流れ
それでは、まず話の流れから。
藤吉郎(秀吉)の活躍により稲葉山城を落とし、斎藤家を滅ぼした信長は、次に伊勢志摩の大名である北畠氏の攻略にかかった。その伊勢攻略の先方として、滝川一益を北伊勢に送り込んでいたが、いざ戦闘を始めてみると相手の抵抗が並大抵モノではなく、特に、高岡城を守る豪将・山路将監にはかなりの手を焼いていた。そこで信長は、滝川一益を援護させるために藤吉郎を北伊勢に送りこみ、事態の打開にかからせた。
北伊勢についた藤吉郎は、滝川一益から手柄をもぎ取り、出世を独り占めするために単独行動を行う。しかし、敵は豪将・山路将監。真正面から行って城を抜くのは非常に困難だった。そこで藤吉郎は、城を力で攻め落とす事から、相手を降伏させる事に作戦を変更。山路将監に直接会って和議という形の降伏を勧める事にした。(勿論、その前には、城と領民ゲリラの間にくさびを打って城を孤立させたりしている)
そして、藤吉郎はお気に入りの馬の口取り・原田三郎左衛門に馬を曳かせて、高岡城の城門に向かった。
その城へ向かう間の会話がこの迦陵頻迦の珍問答の始まり。
ガリョウビンガの珍問答
会話は、藤吉郎が馬の口取り・原田三郎左衛門と城に向かう場面からスタート。
藤:「三郎左、その方は山路将監が降参すると思うかどうじゃ?」
原:「そりゃ、こっちの贈り物次第だと思います。」
藤:「フーン、何を送ればよいと思うぞ」
原:「ガリョウビンガはどうでしょう?」
藤:「ガリョウビンガ・・・、それは何の事だ」
原:「わたしもまだ見たことがありません。しかしなかなかよいものらしゅうござります」
藤:「それは、どこにあるのだ。南蛮人でも持ってきたのか」
原:「うんにゃ、それは極楽浄土にある。できればわしも一つ欲しい」
ガリョウビンガの話をしている原田三郎左衛門もガリョウビンガが何か分かっていない。
なので、この段階で藤吉郎がガリョウビンガについて分かるはずもなく話はどんどん進んで行く。
そして、色んな抵抗や押し問答があった挙句、なんとか藤吉郎は城に入り込み山路将監との体面となった。
藤吉郎と山路将監
藤:「ハッハッハッ・・・いや、やはり山路どのは凡将ではござらぬて。ご城内の備えぶりことごとくわれらの気に入ってござる。まだあれに兵粮もたくさんござるようじゃの」
山:「追従はたくさんじゃ、床几はそこにござる。掛られたら、早速用向きを承ろう。」
藤:「これはかたじけない。では、率直に申し上げよう。この城、いつ、われらにお引渡し下さるや。それを承りに参ってござる」
山:「ワッハッハ・・・、ではわれらの方からお問申そう。木下どのとやら、貴公いったい、この城を何日かかって落として下さるや」
藤:「な、なんだと」
山:「貴公が落としてくれたその日に、われらはこの城をたしかに明渡そう。すべて貴公次第だと心得さっしゃるがよい」
藤:「なるほど、これは明快なご返事じゃ。では早速あれなるやぐらの上に、この旗をお立て願おうか」
山:「では確かにその日まで預りおこう」
こんな幼稚な問答があり、会談は完全にもの別れの様相。
このまま帰る訳にもいかない藤吉郎は、急に突拍子も無い事を言い始める。
藤:「いよいよもって面白い。これでわれらも話甲斐があるというものだ」
山:「くどい!次の用向きを申さっしゃい」
藤:「おう、申さいでか。北畠大納言卿は聞きしにまさるガリョウビンガじゃ」
山:「な、なんだと、何と云われたのじゃ」
藤:「聞きしにまさるガリョウビンガだと申したのだ」
山:「ガリョウビンガ・・・・・?とは何の事だ」
勿論、藤吉郎はガリョウビンガを全く理解していない。
これは一発逆転を狙ったというか、完全に開き直った藤吉郎の知ったかぶり。
藤:「これはしたり、伊勢の国司北畠家にその人ありと知られた山路弾正どのほどのご仁が、ガリョウビンガをご存知ないと申されるか。そのようなことはわれらが馬の口取りまで、絶えず口にいたしている事でござるぞ」
馬の口取りとは先程ガリョウビンガの話をした、原田三郎左衛門。原田が知っていたから、国中の全員が知っていると大ボラを吹いている。それにしても「聞きしにまさるガリョウビンガ」とはおもしろい。
山:「なに、ガ・・・・ガ・・・・ガリョウ、なんと申された」
藤:「ガ、リョウ、ビ、ン、ガ、でござる」
山:「フーム」
藤:「おわかりなされたか。このような極楽の通り言葉を知らないでは相済ますまい」
山:「ああ、それならば相分かった」
藤:「なに、わかられたと!?」
山:「いかにも、相わかった。そのような言葉なら極楽では屁でもないことじゃ」
藤:「ふーん、極楽の屁と申されたな」
山:「いかにも申した。ところで木下どの、われらの主人大納言卿を、貴公よくも屁にたとえられたな。さ、われらの主人が、如何なる理由によってガリョウビンガか、その趣旨を承ろう」
この段階でガリョウビンガは完全に「極楽の屁」になってしまった。しかし、ガリョウビンガが屁であろうと鳥であろうとそれを知らない藤吉郎は、ここでは知っているといった人間の意見に乗っていく以外に道はない。勿論、極楽の屁であるはずはなく、これのことである。ガリョウビンガ→→→
藤:「おおおお申さいでか。よいかの山路どの、屁は屁でも極楽の屁じゃ。これを以て礼を失したと受け取るは貴殿の無学さじゃ」
山:「なるほど、極楽の屁でござるなあ」
藤:「そうじゃ、極楽では屁もまた香り高くして美しい音色のもと思わっしゃい」
山:「ふーむ、そ、それは、そうじゃ。そのはずじゃ」
藤:「ところが、やはり屁は屁じゃ。いかに美しい音色であっても実はない。そもそも北畠家とは、この伊勢にあっていかなる家柄か考えてみられるがよい」
山:「それは、申されるまでもない。南朝の大忠臣、北畠親房卿が大神宮のご神徳とともに、この地にご仁政を残されて・・・・・」
藤:「それそれ、それがガリョウビンガじゃ」
山:「ガリョウビンガであろうかの」
もうここまで来るとガリョウビンガは屁でもない。この段階では何になっているのかは不明だが、最後にはガリョウビンガが何なのかボヤッと見えてくる。
藤:「ガリョウビンガでなくてどうするものじゃ。つまり代々、大神宮の神威を蒙って、民百姓の安泰を祈られる。その北畠家が、何ゆえ織田尾張守信長の、勅命を蒙って乱世を終わらせようとする勤王の大事業の前に立ちふさがって邪魔をなさるのじゃ。・・・・中略・・・・・真っ先に織田と握手して天下泰平のために働かねば済まぬはずの北畠家が、いまだに勤王のさまたげをするとは全くもって祖先と家柄を忘れ果てたガリョウビンガとは、お気づきなさらぬか」
山:「フーム」
藤:「よろしゅうござるかの。われらが主人織田信長の許へは、尾張にあるうちからたびたび勅使ご下向の事があったのでござるぞ。・・・・・・中略・・・・・・だいいち信長公は、年々伊勢大神宮にも寄進をかかさず、熱田の宮へもできるかぎりの保護を加え・・・・」
山:「相わかった!なるほどこれはガリョウビンガでござった」
藤:「おわかり下されたか山路どの」
山:「天朝の事を忘れて戦う・・・・と、云われては、なるほど大納言さまの泣きどころじゃ。北畠家は、そのような事があってはならぬお家柄じゃ」
藤:「お分かり下されてか山路どの」
山:「山路弾正も男でござる。ここはいちばん、大納言さまとご相談申すというたそう」
藤:「それを承って、われらも単身やって参った甲斐がござった。この通りじゃ山路どの」
山:「いやいや、たしかにガリョウビンガでござった。音ばかりではクソの役にも立ち申さぬ」
最終的に二人の間でガリョウビンガは、「無用の長物」のような意味になっています。いくら極楽で良い音を出す屁であっても、それを下界で聞けなければ無意味。北畠家も勤王という大義がありながら、同じ勤王の志を持つ信長に協力しないのであれば無用の長物だと言う事。これは私の推測の範疇を超えないが恐らくそんな感じの意味でしょう。
最後に
このガリョウビンガのくだりは、
お互いに知ったかぶりをしながら、知らない言葉を使い続けて、
いつも間にかその言葉を間違ったはいるが、同じ意味として共有し話の合意に至る、
という凄く面白い話。
またその題材が、藤吉郎こと秀吉だったの言うのも面白さを倍増させています。
みなさんも知ったかぶりをする事がありますか?
知ったかぶりをしてこのようにうまく行く事はまずありません。
このガリョウビンガも家に帰って調べてみれば、お互いに知ったかぶりだった事は一目瞭然。
はずかしい思いをするのは自分なので、知ったかぶりには注意しましょう。
ちなみに、このガリョウビンガのお話は、ここで終了するのではなく、家に帰った後の寧々や竹中半兵衛とのやりとりもありますので、是非この山岡氏の豊臣秀吉を読んでみて下さい。
NHKの今日の料理を参考に、キュウリの即席漬物を作ってみました。
「漬物なんて時間がかかって面倒!」と思われている方も多いかもしれませんが、
大袈裟ではなくたった15分で出来ました。
時間の割に味もしっかり付いていて、本当に美味しかったです。
それでは、まずは材料から。
材料 (4人分)
キュウリ → 3本
漬け汁
おろししょうが → 大さじ1
酢 → 大さじ1/2
醤油 → 大さじ3
砂糖 → 小さじ1/2
ごま油 → 大さじ1/2
※漬け汁は、別皿に作ってよくかき混ぜておいてください。
手順
キュウリを食べやすい大きさにカット
①キュウリを棒で叩く
まずは、キュウリが飛び散らないように、
ビニール袋に入れて棒状のようなモノで叩きます。
叩き過ぎると、粉々になっちゃうので程々にして下さいね。
②キュウリを程良い大きさに切る。
次に次に、その叩いたキュウリを袋から取り出し、
食べやすい大きさ(5cm程度)に切っていきます。
大体、長さも厚みも全体の1/4程度がちょうど良い大きさだと思われます。
③ボールに移す。
全て切り終われば、ボールに入れて下ごしらえは終了。
次に、漬け汁つくりに入ります。
漬け汁を作る
④生姜を摩り下ろす。
まずは、生姜を摩り下ろします。
必要な量は大さじ一杯分ですので、
無駄におろし過ぎないよう注意して下さい。
(私は多く磨りすぎて少し余らせてしまいました・・・。)
後、もしかすると、少し荒い位の生姜の磨り方の方が
風味が出て美味しいかもしれません。
⑤調味料を加える。
続いて、摩り下ろした生姜に、酢→大さじ1/2、醤油→大さじ3、砂糖→小さじ1/2(今回は黒砂糖を使用)、ごま油→大さじ1/2を加えて、よくかき混ぜます。ここでしっかりとかき混ぜておかないと、砂糖が残って妙に甘い部分があったりますので入念に。
⑥キュウリに漬け汁を合わせる。
そして、しっかりと混ざった所で、ボールに用意しているキュウリに漬け汁をかけます。
⑦おもしを乗せる。
最後に、上からおもしを乗せて約五分放置。
⑧盛り付け。
それを、お皿に盛りつけると、たたきキュウリの生姜風味付けの完成です!
私の愛読書でもある、新人物往来社発行の「歴史読本」。
この月刊誌には、歴史好きにはたまらない情報が多数掲載されている。
例えば、ある月の特集では、日本に実在した“城”を幾つかの基準カテゴリーを設けて、都道府県別にランク付けしてみたり、またある月では、日本に伝わる”神話”の謎や疑問点ついて、海外やアイヌの神話と比較しながら徹底的に分析してみたりと、掲載されている情報がいちいち歴史ファンの心を鷲掴みにしてくるものばかり。
今回は、そんな歴史読本の3月号に掲載されていた、仙台郷土研究会の常任理事・渡邊洋一氏が書いた
「戦国武将・伊達政宗の二十四時間」という、とても興味深い記事の一部を紹介します。
この3月号は「戦国武将の美学」というサブタイトルになっていて、
今回紹介する政宗の話以外にも、島津義弘や毛利元就、黒田官兵衛や上杉景勝など、
戦国時代を代表する猛将のエピソードが多数掲載されています。
かなり面白いので、興味のある方は、是非一読してみて下さい。
(Photo : 伊達政宗像 on Flickr)
戦国武将・伊達政宗の印象
政宗といえば、「派手好きで豪快で」というイメージが浸透していると思われます。
これは、渡邊氏の話によると、
葛西・大崎一揆の煽動疑惑で秀吉に召喚された時に、
自虐的に金箔の磔柱を持参し、白装束で都大路を往来したり、
また、朝鮮出兵の際に、ド派手な衣装を軍勢にまとわせ
京の都をパレードしたという行為が、都人の度肝を抜き、
派手で豪快というイメージになったようです。
それらが、伊達者という言葉の語源になり、現在のイメージにも繋がっているようです。
また、政宗の霊廟(れいびょう)である瑞鳳殿から、南蛮装飾のされた金のブローチや、
過剰装飾の煙管(きせる)、さらにはこの時代には珍しい鉛筆などの文房具が出土している事も
政宗の「派手好きや贅沢な暮らしぶり」のイメージに繋がっている、と渡邊氏は話しています。
出土品の画像は、こちらのサイトで確認して下さい。(瑞鳳殿 -インターネット資料館-)
Photo:伊達家墓所 瑞鳳殿 on Flickr
イメージとは違う政宗の24時間
では、実際の政宗の日常はどうだったのかというと、上の印象とは少し違い、
非常に真面目で自分への規律を重んじる実直なものいう風に私は感じました。
渡邊氏によると、政宗の日常に関しての記述は、徳川幕府が成立してからのものがほとんどのようなんですが、
今回、渡邊氏が紹介してくれたものは、家臣である剛将・伊達成実が晩年に残した「政宗記」の中に記された、
戦国時代の可能性がある政宗の日常について。
江戸期の可能性も否定出来ないようですが、他の記述よりは戦国期の可能性があるのかもしれません。
「政宗記」の中で戦国武将・伊達政宗の日常は以下のように記されているようです。
午前6時 起床
目覚めるとそのまま、寝床の上で髪を束ね、手水(手洗い・便所)に立つ。その間に奥小姓に唐皮を敷かせたり、蝋燭を付けさせたりと、煙草の準備を整えさえ、手水から戻り次第、一服。その煙草も日によって、朝は三服、昼は五服などと前もって吸う量を決めていて、それに沿って行動していたようです。
午前7時頃~9時頃 閑所・行水・髪結い
煙草の一服の後、政宗は閑所と呼ばれる別室に2時間ほど籠り、その日のスケジュールの確認や、書状のしたため、部下に与える指示事項の練り上げなど、その日の実務に必要な準備を行うようです。ここでは、朝食の献立も政宗自身で確認するようですよ。
閑所での雑務が終了すれば、水屋に行って行水。陣中でもどんなに寒い日でも絶対に欠かさず行うようです。それが終われば着替て、奥の居間に出て小姓に髪結いをさせながら、御機嫌伺いに来た家臣たちに政務の指示を与えるという流れです。(Photo: 仙台城脇櫓 on Flickr)
午前9時頃~11時頃 朝食
起床から約3時間、やっとここで朝食になります。この頃は、一日二食というのが一般的だったので、あまり早い時間に食事をすると後半にお腹が空いてしまう。したがって、この時間帯の朝食が一般的だったと思われます。
政宗の朝食は一人で取るのではなくて、表で指名した家来衆数人に相伴させながら取ったようです。朝食では、大名である政宗も家来衆全員に食事が行き届くのをしっかりと待って、みんなの文が揃い次第、膝を正して座り直し、箸を付ける。政宗が箸を付けたのを確認した後、家来衆も食事を始めるといった形のようです。
朝食後は、そのまま家臣たちと、お茶やお菓子を摘みながら談笑し、一服、手水という流れになる。
午前11時頃~午後2時頃 政務・決済
城表で政務を取ったり、次々に登場する家臣達が持って来る案件に対して決済を出したりと様々な仕事をこなして行く形になります。そして、こういった政務を大体、午後2時頃まで続けます。
午後2時頃~午後3時頃 おやつ・一服
上でも少し書きましたが、昼ご飯を食べる習慣がないので、どうしても夕食までに小腹が空きます。したがって、この時間帯にお菓子などを食すことが習慣化されていたようです。公務はこのおやつタイムを目処に終了という感じですね。
ここまでが城表での作業になり、その後、奥に戻って大好きな一服をして、再び閑所に籠るという流れになります。
午後3時頃~午後5時頃 閑所・行水
奥に戻ると政宗は再び、二時間ほど閑所に籠ります。これは、その日の政務のチェックや翌日の予定の確認・準備などを行うためで、色んな軍事的な作戦もこの午前と午後の閑所で練られていたものと考えます。
この午後の閑所では夕食の献立もチェックするようで、それらが済んだ後、水屋におもむき、行水という流れになります。
午後5時頃~午後7時頃 夕食
夕食は奥で相伴の家来衆数人と共に取るようです。奥で夕食を取るのは、表よりもより、リラックスが出来るためと渡邊氏は推測しています。食事が終われば、お茶を飲み少し歓談をして一服。そして就寝へと流れて行きます。夕食後にまた、閑所に籠ることもあるようです。
午後8時頃 就寝
平時で夕食後に閑所に籠らなければ、ここで就寝という形になります。
政宗の日常生活から考えた事
やっぱり戦国を生き抜いた人間は、緻密で自分に対しても非常に厳しいという印象。
政宗の24時間を見ていると、行動の一つ一つに自ら規律を課して、
それをしっかりと順守していたという感じを強く受けました。
上では書きませんでしたが、
政宗は病気になっても他人に寝ている姿を一切見せなかったというエピソードがあります。
これも、政宗が自分に課した規律の一つで、その辺りからも政宗の自分に対する厳しさが伺えます。
どんな時でも行水を欠かさなかったり、煙草の量を決められたとおりに制限したりと、
本当に戦国時代を生き抜いた人というのは、精神的にタフだと感じました。
もうひとつ、午前と午後に閑所に籠って先々への準備を怠っていなかったという所にも感銘を受けました。
政宗の戦術は、軍事的にも政治的にも常に相手の意表をつくもの非常に多い。
(例えば、上で書いたような一揆の煽動などは、相手の意表を着く、軍事的には素晴らしい作戦。)
なので、どうしても小説などでは政宗の天才ぶりが先行して、
常にその場の機転で何でも決めているという印象が非常に強いです。
しかし、こういった閑所に籠ってじっくり準備するという習慣があると分かると、
やっぱり厳しい戦国時代を生き抜くためには、その場の機転も必要なのでしょうが、
このような徹底した準備と反省が必要なんだと強く感じました。
政宗は後20年早く生まれていれば、天下を狙えたかもしれないと言われています。
事実、秀吉が関東に進出して来るまで、政宗はすさまじい勢いで東北地方の自領を増やしていました。
しかし、政宗が東北地方で力を持ち始めてきた頃には、もう中央での秀吉の天下はほぼ定まっていて、
政宗の入り込む隙はありませんでした。
私は、政宗は戦国大名の中でも、織田信長と並ぶ鬼才の持ち主だと思います。
しかし、信長とは違ってその鬼才を十分に発揮出来ぬまま戦国時代が終わってしまったという印象です。
今回、この歴史読本3月号で、こういった政宗の特集を読めた事を本当に嬉しく思います。
また、こんな貴重な情報を紹介してくださった渡邊洋一氏にも心から感謝致します。
貴重な情報有難うございました。
記事ソース:新人物往来社 歴史読本 3月号 P174~178
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もうすぐ待ちに待ったお花見シーズン。
公然と野外で飲んで、はしゃいで、自然を満喫出来る季節。
お花見という言葉を耳にするだけで、なぜか普段よりも気持ちが高揚してしまいます。
色鮮やかな白やピンクが脳内に飛び込んでくるからでしょうかね・・・?
沖縄のお花見シーズンは、1月の下旬から2月の中旬にかけて。
基地移設問題で話題になっている名護市が日本一速い桜祭りと称して、
一月の下旬に「名護さくら祭り」を開催しているのでも有名です。
なので、沖縄ではすでに桜は散っているのですが、本土の桜はこれからが本番!
今年は、例年よりも開花時期が早まるのではと予想されているのですが・・・、さて、いつ頃になるのでしょう。
下の画像は、日本気象協会が3月3日に発表した桜の開花予想。
今回の予想では、東京都心の桜の開花は、3/21頃、満開になるのは3/29頃で、
平年よりも一週間程早いようです。
また、大阪では3/25頃の開花、4/2頃の満開と、
こちらも4日ほど平年よりも早いようです。
全体的には、西日本と東日本では平年よりも早め、もしくはかなり早めの開花・満開になり、
北日本では平年並みか少し早くなる見込みのようですね。
ただ、桜の開花予想は、天候の変化によって、しょっちゅう変動する事で有名ですので
下のサイトで、随時、開花予想を確認するようにして下さいね。
■ 日本気象協会 tenki.jp
大正時代という言葉から連想されるものを考えた時、私の頭に真っ先に浮かんできた言葉が「大正デモクラシー」。
広辞苑によると、「大正期に顕著となった民主主義(デモクラシー)的・自由主義的風潮のこと」となっています。
年代は、日露戦争に勝利した後の1910年代から、第一次世界大戦の戦争特需があった1920年代頃。
この頃の日本は、急速に力をつけて世界各国から先進国の一員として認められ始めていました。
それと同時に資本主義経済も急激な発展を見せ、「成金」などと呼ばれる、にわかセレブまで現れ始めました。
私のイメージの中で、この「成金」という言葉が非常に強く残っているのでしょう。
「大正時代デモクラシー」やそれに近い「大正ロマン」という言葉の中には、
多分に「華やかさ」というイメージが刷り込まれています。
事実、そういう華やかな暮らしをしていた人がたくさんいたんでしょうが、恐らくそれは、歴史の中のほんの一面。
教科書に出てくるような特殊な人物群だったんでしょう。
私は今回、自分の知識の不足からきた「大正デモクラシー」「大正ロマン」=「華やか」という
安易で間違った考え方の反省も込めて、教科書に出てこないような普通の人々の暮らしぶりを
写真を通して紹介したいと思います。
勿論、それらの写真も歴史の中のほんの一面。
様々な生活の営みがある中から、一部のみを抜粋したもの。
しかし、そこには教科書には載ってなかった大正時代の何かがあると思います。
【薪拾いをしている女の子】
こんな笑顔を出来る子が現代にいるのかと思えるほどの、屈託の無い可愛い笑顔。
【仕事の休憩中に笑顔を見せる村娘】
女は愛嬌といいますが、笑顔から彼女の人間性が見えますね。
【パイプを吸う農家のおじいさん】
農作業の合間にパイプで一服。時代背景からしてタバコじゃないかもですね。
【魚が釣れて喜ぶ漁師たち】
右上の親方のような人、怖そうですね。
【自分の凧をカメラに見せる子供たち】
凧をカメラに見せる自慢げな顔が凄く可愛いです。
【かまぼこを焼くおじいさん】
タイトルはかまぼことしましたが、?がつきます。何を焼いているんでしょうね。
【孫娘に繭(まゆ)の紡ぎ方を教えるおじいさん】
左に写っている子供は短髪ですが、女の子です。おじいさんの仕事見て勉強中。
【太鼓とお神輿と子供たち】
みんなカメラ目線なのが凄く可愛いですね。
上で紹介した写真は全て、「写真家・江南信國氏(T.Enami)」が撮影し、
Okinawa Sobaさんが収集したものになります。
今回はOkinawa Sobaさんから画像の使用許可を頂き、当サイトに掲載させて頂きました。
ソースは以下になり、また他にもたくさんの画像がありますので、是非参照して下さい。
■ T. ENAMI’S TAISHO-ERA STOCK PHOTO FILE – a set on Flickr
バレンタインも終わり、みなさんチョコは沢山もらいましたか?
チョコをたくさんもらうと、それはそれで大変嬉しい事なんですが、
その後にやってくる、あの日の事を考えるとちょっと凹みますよね。
そうです、バレンタインデーの後には必ずホワイトデーがやってきます。
毎年毎年、飽きもせずに、チョコをもらえば何かを返すというスパイラル。
もうそろそろお返しのネタも尽きている頃だと思います。
今回は、そんなホワイトデーのお返しに最適??な一風変わったお菓子を紹介します。
ただし、このお菓子はノリの分からない子に渡すと、引かれる可能性があるので注意して下さい。
花火玉のお菓子
これを見た瞬間、絶対に誰でも「えっ」てなると思います。
出来ればラッピングも何もせずにこのまま渡した方がいいでしょう。
ふたを開けるとさらにビックリ。
めちゃくちゃ可愛らしいカラフルな飴が入っています。
「縁日の飴」と言うらしいですよ。
外見と中身のギャップにグッと来るかもです。
花火玉の中身は飴の他にも色んな物が・・・。
左側が、氷玉ガム。右側が、笛ラムネ。
下の二つはチョコですね。
左側が、たまごチョコ。右側が小石チョコ。
どれもこれも、一風変わった粋なネーミングです。
何度も言うようですが、この花火玉お菓子はすごいインパクトがあるので
ノリの分からない人にあげちゃうと思いっきり引かれる可能性があります。
しかし、ノリの分かる人にあげると、絶対に喜ばれますし、話題にもなります。
今年のホワイトデーは、ちょっと目立ってみませんか?
ちなみに、1個税込で577円です。
こちらの、ショップで買い物ができますよ。
★こだわりの和雑貨 和敬静寂★