歴史的な古写真:明治・大正期の花魁と禿と遊郭
下の古写真を見てどう思われかは個人の自由。遊女については否定的に捉える人もいれば、ただ単に一つの歴史的事実だと感じる人もいるでしょう。
私はどちらかと言うと後者の方。なぜなら、私には、それを否定する事も肯定する事も出来るほどの知識がなく、ただ、呆然とそれらの写真を眺める事しか出来ないからです。単純に綺麗だの可愛いだのと心のままに感じる事しか出来ず、時代背景にある民族的思想や、文化についても深く語る事ができません。
なので、今回は非常にニュートラルな気持ちで明治・大正期の花魁と禿と遊郭の古写真を紹介します。
分かる範囲の事は、なるべくウェキペディアなどを用いて紹介したいと思いますので、参考にしながら純粋に画像を楽しんでください。
花魁と禿(かむろ)
花魁とは吉原遊女でも位の高い者、禿とは、花魁の身の回りの雑用をする10歳前後の少女達の事です。
これらの写真は、1900年~1915年頃に撮影されたもののようですが、場所の特定はされていません。
花魁と太夫の違いを簡単に説明すると関東風か関西風の違い。両者とも位の高い遊女の事ですが、吉原では花魁、京都・大阪では太夫という呼び方が一般的だったようです。吉原にも当初は太夫が存在したようですが、その呼び方が次第になくなり、花魁に変わっていったとの事。
ちなみに、写真とは関係ないですが、大阪・新町の夕霧太夫、京都・島原の吉野太夫、江戸・吉原の高尾太夫と言うのが江戸期を代表する花魁だったようですね。
去年の暮に放送されていたテレビドラマ「JIN」に中谷美紀さんが花魁役(野風)で出ていましたが、こんな感じの大きな下駄(三枚歯下駄)を履いていました。吉原の「外八文字」と呼ばれる独特の歩き方で街中を練り歩くシーンはド迫力でしたね。
また、その野風さんの周りには彼女のお世話をする少女(禿)がいて、チョコマカ働き回っていました。
禿は何らかの事情があって、そのお店に売られてきた子達が殆どのようで、一般的には、借金の形や生活苦の為に、売りに出されたと言われています。
遊郭
この写真は吉原で撮られたもので、海外の出版物に掲載されたもののようです。出版時期は1897年。
したがってこの写真も恐らくはその前後に撮られたものだと思われます。
意外に人がいなくてガラッとしていますが、朝早くかお昼時に撮られたものではないかと推測されています。
下の写真は1890年代に撮られたもの。場所の特定はありませんでした。
元サイトの記述にあったのですが、この右下に写っている男性がお客さんで、彼の持っている煙管がお客選びにおける重要な役割を果たしているようです。
まず男性は、自分の煙管に火をつけて一服する。そしてお気に入りの遊女にその煙管を手渡し、その遊女が一服すれば交渉は成立。嫌な場合はその煙管を受け取らないようです。
下の写真は明治の吉原。写真に写っている遊女だけで15人ほどいます。
恐らく、花魁などの位の高い遊女は顔を見せないはずですので、それらも加えると一つの遊郭あたり、20~30名程の遊女がいたと推測されます。
最後に
遊郭のその後について、ウェキペディアに記載がありましたので下に引用します。
第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)にはGHQの政策により公娼制度が廃止されるが、カフェーや料亭などと看板を変えて、ほぼそのまま「赤線」の通称で呼ばれる地域になった。1956年、売春防止法が成立し、1958年3月31日、同法の施行と共に公娼地域としての遊廓の歴史は、完全に幕を閉じることになった。現在公認の娼婦街はないが、大阪の飛田新地など、表向き料理旅館に転向したものの、客と仲居との個室内での自由恋愛の名目の元に、1958年以前と変わらない営業を継続している地域もいくつかある。また、東京の吉原のように、かつての公娼街がその後もソープランドや風俗営業の多く集まる地域となり、公娼地域まがいに営業を続けている所などもある。
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