龍馬伝の頃の下田の風景・古写真を5枚ほど
NHK大河ドラマ・龍馬伝の影響で、現在、日本全国に幕末ブームが沸き起こっていますが、今回紹介する古写真も、その幕末において非常に重要な役割を果たした土地・下田。
1853年にペリーが黒船を率いて浦賀に現れ、徳川幕府に開国を要求。翌1854年には、アメリカとの間で日米和親条約が締結され、下田港は開港されましたが、その後、ペリーの下田入りや、吉田松陰アメリカ渡航失敗などで、下田は度々幕末史にその名が登場してきました。
下は、ペリー来航から約10年後の下田の写真。
そんな歴史的大事件が起こっていたとは思えないくらい、平穏でのどかな生活風景。非常に味わい深いものが多いですので、まずはゆっくりとご覧になってください。
現在、ペリーロードと呼ばれる一画。川面に写る木橋と家を覆う屋根瓦に何とも言えない趣を感じます。
八幡神社へ通ずる道。明治維新よりも6年前にあたる1862年に撮られた写真。1862年と言えば、あの寺田屋事件や生麦事件が起こったのと同年ですね。
下田・八幡神社に集まる子供たち。写真を撮っている間このまま動かずに待っているのを想像すると凄く可愛らしいです。
下田近郊にある柿崎村の釣り師の写真。これを生業にしてるかどうかは分かりませんが、釣った魚が食卓に並ぶのでしょうね。魚を入れる籠なども良い雰囲気が出ています。
こちらも1862~1864年頃に撮られた写真。兄が妹に「書き」を教えているところです。妹は少し照れくさそうですが、みんな真剣に勉強しています。
こんなにも穏やかな風景や人物写真を見ていると、何か我々が想像する幕末のイメージとは大きくかけ離れていて、尊皇攘夷や開国、はたまた佐幕といって暴れ回っている志士達や幕府役人が本当に実在したのかと思えるくらい静かな感じがします。
小説家・司馬遼太郎氏が著書「竜馬がゆく」の中で、この時代を「猖獗」という言葉で表現していて、意味は、良くないものが暴れ回ったり猛威をふるうという事なのですが、その猖獗の状態にあったのは、もしかすると中央(京都や一部の江戸)のみで、遠方に住む人々は、それまでの300年とあまり変わることのない日常生活を送っていたのかもしれません。
あくまでも、数枚の写真のみでの判断、さらには写真を見た私の主観がふんだんに入り交じっていますが、これらの写真からは、蛤御門の変や池田屋事件、長州征伐や大政奉還などといった狂気とも言える幕末の出来事を連想するのは非常に困難です。
やはり、歴史を動かす出来事は、一部の人間によって創りだされて、後世に語り継がれていく。
しかし、大半の人というのは、そんな事も関係なく、今与えられている目の前の人生を、ただただ一生懸命に生きて行く。歴史的大事件が突発的に起こるのに時代がゆっくりと変化していくのは、そういう人々の人生のスピード、つまり、目の前の人生を一歩つづ進んでいく生き様が大きく関わっているのだなぁと強く感じました。
まだまだ、貴重な写真がたくさんありますので、折を見て紹介していきたいと思います。
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