歴史読本3月号の「戦国武将・伊達政宗の二十四時間」が非常に面白かった
私の愛読書でもある、新人物往来社発行の「歴史読本」。
この月刊誌には、歴史好きにはたまらない情報が多数掲載されている。
例えば、ある月の特集では、日本に実在した“城”を幾つかの基準カテゴリーを設けて、都道府県別にランク付けしてみたり、またある月では、日本に伝わる”神話”の謎や疑問点ついて、海外やアイヌの神話と比較しながら徹底的に分析してみたりと、掲載されている情報がいちいち歴史ファンの心を鷲掴みにしてくるものばかり。
今回は、そんな歴史読本の3月号に掲載されていた、仙台郷土研究会の常任理事・渡邊洋一氏が書いた
「戦国武将・伊達政宗の二十四時間」という、とても興味深い記事の一部を紹介します。
この3月号は「戦国武将の美学」というサブタイトルになっていて、
今回紹介する政宗の話以外にも、島津義弘や毛利元就、黒田官兵衛や上杉景勝など、
戦国時代を代表する猛将のエピソードが多数掲載されています。
かなり面白いので、興味のある方は、是非一読してみて下さい。
(Photo : 伊達政宗像 on Flickr)
戦国武将・伊達政宗の印象
政宗といえば、「派手好きで豪快で」というイメージが浸透していると思われます。
これは、渡邊氏の話によると、
葛西・大崎一揆の煽動疑惑で秀吉に召喚された時に、
自虐的に金箔の磔柱を持参し、白装束で都大路を往来したり、
また、朝鮮出兵の際に、ド派手な衣装を軍勢にまとわせ
京の都をパレードしたという行為が、都人の度肝を抜き、
派手で豪快というイメージになったようです。
それらが、伊達者という言葉の語源になり、現在のイメージにも繋がっているようです。
また、政宗の霊廟(れいびょう)である瑞鳳殿から、南蛮装飾のされた金のブローチや、
過剰装飾の煙管(きせる)、さらにはこの時代には珍しい鉛筆などの文房具が出土している事も
政宗の「派手好きや贅沢な暮らしぶり」のイメージに繋がっている、と渡邊氏は話しています。
出土品の画像は、こちらのサイトで確認して下さい。(瑞鳳殿 -インターネット資料館-)
Photo:伊達家墓所 瑞鳳殿 on Flickr
イメージとは違う政宗の24時間
では、実際の政宗の日常はどうだったのかというと、上の印象とは少し違い、
非常に真面目で自分への規律を重んじる実直なものいう風に私は感じました。
渡邊氏によると、政宗の日常に関しての記述は、徳川幕府が成立してからのものがほとんどのようなんですが、
今回、渡邊氏が紹介してくれたものは、家臣である剛将・伊達成実が晩年に残した「政宗記」の中に記された、
戦国時代の可能性がある政宗の日常について。
江戸期の可能性も否定出来ないようですが、他の記述よりは戦国期の可能性があるのかもしれません。
「政宗記」の中で戦国武将・伊達政宗の日常は以下のように記されているようです。
午前6時 起床
目覚めるとそのまま、寝床の上で髪を束ね、手水(手洗い・便所)に立つ。その間に奥小姓に唐皮を敷かせたり、蝋燭を付けさせたりと、煙草の準備を整えさえ、手水から戻り次第、一服。その煙草も日によって、朝は三服、昼は五服などと前もって吸う量を決めていて、それに沿って行動していたようです。
午前7時頃~9時頃 閑所・行水・髪結い
煙草の一服の後、政宗は閑所と呼ばれる別室に2時間ほど籠り、その日のスケジュールの確認や、書状のしたため、部下に与える指示事項の練り上げなど、その日の実務に必要な準備を行うようです。ここでは、朝食の献立も政宗自身で確認するようですよ。
閑所での雑務が終了すれば、水屋に行って行水。陣中でもどんなに寒い日でも絶対に欠かさず行うようです。それが終われば着替て、奥の居間に出て小姓に髪結いをさせながら、御機嫌伺いに来た家臣たちに政務の指示を与えるという流れです。(Photo: 仙台城脇櫓 on Flickr)
午前9時頃~11時頃 朝食
起床から約3時間、やっとここで朝食になります。この頃は、一日二食というのが一般的だったので、あまり早い時間に食事をすると後半にお腹が空いてしまう。したがって、この時間帯の朝食が一般的だったと思われます。
政宗の朝食は一人で取るのではなくて、表で指名した家来衆数人に相伴させながら取ったようです。朝食では、大名である政宗も家来衆全員に食事が行き届くのをしっかりと待って、みんなの文が揃い次第、膝を正して座り直し、箸を付ける。政宗が箸を付けたのを確認した後、家来衆も食事を始めるといった形のようです。
朝食後は、そのまま家臣たちと、お茶やお菓子を摘みながら談笑し、一服、手水という流れになる。
午前11時頃~午後2時頃 政務・決済
城表で政務を取ったり、次々に登場する家臣達が持って来る案件に対して決済を出したりと様々な仕事をこなして行く形になります。そして、こういった政務を大体、午後2時頃まで続けます。
午後2時頃~午後3時頃 おやつ・一服
上でも少し書きましたが、昼ご飯を食べる習慣がないので、どうしても夕食までに小腹が空きます。したがって、この時間帯にお菓子などを食すことが習慣化されていたようです。公務はこのおやつタイムを目処に終了という感じですね。
ここまでが城表での作業になり、その後、奥に戻って大好きな一服をして、再び閑所に籠るという流れになります。
午後3時頃~午後5時頃 閑所・行水
奥に戻ると政宗は再び、二時間ほど閑所に籠ります。これは、その日の政務のチェックや翌日の予定の確認・準備などを行うためで、色んな軍事的な作戦もこの午前と午後の閑所で練られていたものと考えます。
この午後の閑所では夕食の献立もチェックするようで、それらが済んだ後、水屋におもむき、行水という流れになります。
午後5時頃~午後7時頃 夕食
夕食は奥で相伴の家来衆数人と共に取るようです。奥で夕食を取るのは、表よりもより、リラックスが出来るためと渡邊氏は推測しています。食事が終われば、お茶を飲み少し歓談をして一服。そして就寝へと流れて行きます。夕食後にまた、閑所に籠ることもあるようです。
午後8時頃 就寝
平時で夕食後に閑所に籠らなければ、ここで就寝という形になります。
政宗の日常生活から考えた事
やっぱり戦国を生き抜いた人間は、緻密で自分に対しても非常に厳しいという印象。
政宗の24時間を見ていると、行動の一つ一つに自ら規律を課して、
それをしっかりと順守していたという感じを強く受けました。
上では書きませんでしたが、
政宗は病気になっても他人に寝ている姿を一切見せなかったというエピソードがあります。
これも、政宗が自分に課した規律の一つで、その辺りからも政宗の自分に対する厳しさが伺えます。
どんな時でも行水を欠かさなかったり、煙草の量を決められたとおりに制限したりと、
本当に戦国時代を生き抜いた人というのは、精神的にタフだと感じました。
もうひとつ、午前と午後に閑所に籠って先々への準備を怠っていなかったという所にも感銘を受けました。
政宗の戦術は、軍事的にも政治的にも常に相手の意表をつくもの非常に多い。
(例えば、上で書いたような一揆の煽動などは、相手の意表を着く、軍事的には素晴らしい作戦。)
なので、どうしても小説などでは政宗の天才ぶりが先行して、
常にその場の機転で何でも決めているという印象が非常に強いです。
しかし、こういった閑所に籠ってじっくり準備するという習慣があると分かると、
やっぱり厳しい戦国時代を生き抜くためには、その場の機転も必要なのでしょうが、
このような徹底した準備と反省が必要なんだと強く感じました。
政宗は後20年早く生まれていれば、天下を狙えたかもしれないと言われています。
事実、秀吉が関東に進出して来るまで、政宗はすさまじい勢いで東北地方の自領を増やしていました。
しかし、政宗が東北地方で力を持ち始めてきた頃には、もう中央での秀吉の天下はほぼ定まっていて、
政宗の入り込む隙はありませんでした。
私は、政宗は戦国大名の中でも、織田信長と並ぶ鬼才の持ち主だと思います。
しかし、信長とは違ってその鬼才を十分に発揮出来ぬまま戦国時代が終わってしまったという印象です。
今回、この歴史読本3月号で、こういった政宗の特集を読めた事を本当に嬉しく思います。
また、こんな貴重な情報を紹介してくださった渡邊洋一氏にも心から感謝致します。
貴重な情報有難うございました。
記事ソース:新人物往来社 歴史読本 3月号 P174~178
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